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マラソンの記録が始まり数値化することで強さを測れるようになった

国際陸連は、それまでマラソンなどロードレースを陸上競技の外の種目として軽視する傾向があったが、1981年に第4代会長に就任したプリモ・ネビオロはマラソンに注目した。

80年代に入ってからのマラソンに、それまで軽んじられていた記録という評価軸が加味されたことで、新たな展開が期待されたからだ。

マラソンはコースや気象などそれぞれの環境がレース結果を左右するため勝負が優先され、記録は二義的に考えられていた。そこに一石を投じたのが、米国のスポーツメーカーの肝いりで始まったオランダの〈ロッテルダムマラソン〉だ。

ロッテルダムはオランダ第二の都市だが、伝統や経済力ではニューヨーク、ロンドン、パリといった大都市とは競争にならない。そこで、平坦で走りやすい町の個性を生かして、記録を前面に押し出す戦略を打ち出した。

マラソンに都市の個性を反映させる発想は、1970年にニューヨーク市の五つの行政区を結んでスタートした〈ニューヨークシティマラソン〉に端を発し、映像、交通など多方面での技術革新が飛躍的に進んだ80年代の特色である。

1985年4月、ロッテルダムマラソンは、それまでの中長距離トラックレースで採用されていたペースメーカーをマラソンに投入し、ヴァンサン・ルソー(べルギー)をペースメーカーに仕立てることで、ロサンゼルス・オリンピックの金メダリスト、38歳のカルロス・ロぺス(ポルトガル)の世界最高、2時間7分12秒を引き出した。

記録という概念の導入は、「強さ」を数値化、可視化することで、順位だけでなく、自己記録、男女別記録、年代別記録などといった多様な目標設定を可能にし、マラソンの大衆化をスムーズに進行させることにつながった

都市の個性やベストタイムを競うことで、各地のマラソン大会の間での競争が始まり、それに伴い賞金の高額化が進み、トップ選手に支払われる出場料も上昇した。こうした80年代後半のマラソンのプロ化に、日本のマラソン界はなかなか馴染まなかった。

日本陸連の掲げるアマチュアリズムの旗印の下では、国内大会は賞金や出場料を提示できず、公然と国際競争に参加できなかった。裏金を支払うことで国際招待選手を甘やかす一方、国内大会保護という名目のもとに日本のトップ選手を国内に封じ込めたため、日本選手の力は相対的に下降し始め、レースの質も徐々に下がっていった。

たとえば、日本陸連は2003年の〈福岡国際マラソン〉まで、ペースメーカーの存在を公にしなかった。「競技者への助力の禁止」というアマチュア時代のルール解釈から抜け出せなかったが、現実間題として、ペースメーカーが存在しなければ記録は伸びず、記録が落ちれば大会の格が下がり、格が下がれば一流選手を招待できないという悪循環にった。

そのため、ぺースメーカーを起用しながら公表しないというダブルスタンダードの時代が10年以上も続いた。後援する新聞各社もそれを報道できず、選手の微妙な駆け引きなど、レースの核心に触れたテレビ中継はできず、核心に迫るストーリーも書けなくなった。

賞金間題は、国内に複雑な人間関係を生み出した。海外レースは日本のトップランナーに好条件を持ちかけ、そうした選手を日本の国内大会に引き留めるためには見返りが必要になる。

トップ選手がそうした裏のある待遇に甘んじれば競技力は錆びついていく。80年代までの海外遠征は、個人資格ではなく日の丸をつけた代表派遣で、日本陸連関係者が同行する旧社会主義のような体制をとっていた。

賞金などの報酬が渡されれば、日本陸連が預かり、選手は諸経費を除いた額を引退後に請求する建て前だった。早稲田閥を背負った瀬古利彦は自己主張を貫いての海外進出も可能だったが、その瀬古でさえ賞金を受け取ることは認められなかった。