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マラソンや駅伝も戦争の影響を受けてきた歴史がある

1940 (昭和15)年に第12回大会として開催予定だった東京オリンピックは、国際情勢悪化のため日本政府によって返上され、代替地のヘルシンキ(フィンランド)での大会も結局はヨーロッパでの戦火拡大のために中止に追い込まれた。

日本のスポーツは開国以来、世界列強の仲間入りというスローガンに重ねるようにして普及、強化されてきた。その国際目標に向かって先頭に立ったマラソンは、太平洋戦争の本格化とともに立ち止まらざるを得なくなった

戦時体制に入った軍部は国民生活への介入を深め、1938(昭和13)年には第一次近衛文麿内閣が国家総動員法を定めて学従動員が始まった。政権による文化活動への干渉と圧力はスポーツにまで及び、野球のストライクが「よし」となったことなどは知られているが、ほとんどがカタカナ表現のテニスなどは惨状たる状況に追い込まれた。

サーブが「発球」、レシーブは「受球」戦前の専門誌テニスファン (1940年1月号)ではこんな募集をしている。
庭球用語及び其他読者諸兄姉で御気付の用語の日本語化を懸賞募集したいと思ひます。
軍の圧力は陸上競技にも及んだ。

40年に神宮競技場で行われた日本選手権には手榴弾投げが加わり、全日本陸上競技連盟は大日本体育会陸上戦技部と改称された。41年に日本学生陸上競技連盟が解体されて大日本学従体育振興会が設立され、学生の遠征旅行が自粛されるようになり、スポーツの全国行事は全面禁止になる。

43年の明治神宮国民錬成大会では、手榴弾投げや40kgの米俵運搬競走などのほかに、銃剣術、などが実施されている。軍事教練である。

箱根駅伝は、まず1940 (昭和15)年の第21回大会で足踏みした。陸軍が中止命令を出した最大の理由は、東海道の軍事使用だったという。関東学連はコースと名称を変更することで、41年1月12日に「東京ー青梅間大学専門学校学従鍛錬継走大会」(8区間107km、12校参加)を実施した。戦前のスポーツは学生によって運営されており、大学0Bのコネを伝って軍将校と交渉するだけの余地があったのだ。

東京-青梅間の駅伝は同年の11月30日にも行われ、これは翌年の1月開催が難しいという判断による繰り上げ開催だった。実際、12月8日の真珠湾攻撃によって日本は米国に宣戦布告した。

世相は軍事色一色となり、じわじわと敗色が濃厚になってきた1943(昭和18)年、3年ぶりに第22回箱根駅伝が実施された。このときの関東学連は「紀元二千六百三年靖国神社・箱根神社間往復関東学従鍛錬継走大会」と銘打つことで、軍当局の開催許可を得たものの、44年から終戦後の47年に復活するまで大会は中止される。

なお、東京-青梅間での二度の駅伝は箱根駅伝の大会数に数えられていない。日本は、刀を捨て一雷を解いてからわずか70年間で、野球やテニス、陸上競技、サッカーを全国の津々浦々まで普及させ、世界と争ってオリンピックの金メダルを持ち帰るまで強化に成功した。

驚異的な速さと言っていいだろう。移入文化であるスポーツが、短い時間でどこまで日本人の生活に根付いていたか試されたのがこの大戦だった。たとえば米国のメジャーリーグ野球は、主力選手が戦地に赴いても中断はされなかった。ルーズベルト大統領は時のランデイス・コミッショナーに「国民が心を休めるレクリエーションがより一層必要とされる」と手紙を書いている(ジョセフ・ダーソー『アメリカンドリーム』)。駅伝やマラソンには球技などゲームスポーツとは違う側面があった。