目次

東京マラソンが開催できるまでには3つの難しい問題があった

1.東京マラソン誕生まで
戦後、「全国マラソン連盟」の指導で、全国各地でマラソンや駅伝などのロードレースが開かれた

その頃に誕生し、形を変えながら現在も続くレースとしては、1947年に始まった丸亀マラソン、48年に始まった真夏の駅伝として知られる十和田八幡平駅伝、53年からの勝田マラソン、56年からの熊日30キロなどがある。これらの大会は広く愛好家が参加する現在の大衆マラソンとは違い、オリンピックを目指したエリート育成が基本目的だった。

たとえば勝田マラソンはもともと読売全国マラソンとして明治神宮周辺で行われ、篠崎清をボストンマラソンに派遺するために作られた大会だ。篠崎は茨城県の熱血教員で、山田敬蔵らとともにボストンに出場、現地の練習中に足を痛めたが22位でゴールしている。

幼い生徒たちの5銭募金で旅費が補われ、その期待に応えた完走だったが、そうした地元との縁で、いくつかの変遷を経た後に、茨城県ひたちなか市で行われるようになって現在に至る。勝田マラソンが茨城県水戸市で開かれていた第15回大会(1967年)の参加者が226人で、これが当時では最も参加者の多いフルマラソンの大会だった。

大衆マラソンの原点と言われる青梅マラソンの旗揚げは1967年3月、「円谷選手と走ろう」というキャッチフレーズの下に企画され、76年には7813人が国内で初めてのローリングスタートを採用している。ローリングスタートは、用意ドンの一斉スタートではなく、大人数による事故を防ぐため、歩きながら徐々に走り出すスタートである。

青梅マラソン会場で売り出されたのが、ランニング愛好家向けの専門誌『ランナーズ』の創刊号だった。これはランニング好きのカメラマンと編集者の夫妻が手作りで始めた雑誌で、発刊と同時に講習会なども開催しながら、ランニングブームをじわじわと押し上げていった。

富士五湖の一つ、河口湖を2周する河口湖マラソン(現富士山マラソン)の第1回がやはり76年の秋。「日本一の富士山の下で日本一の大会」を目指し、ここには2000人が参加している

2.東京マラソン開催までの三つの障壁

東京マラソン開催には三つの障壁があった。まずは道路使用、これには警視庁の了解がいる。次が日本陸連の公認間題で、陸連がコースを公認しレースを公認しなければ公式記録とはならない。次が主催新聞3社の絡みだ。

そのなかで最大のポイントが道路使用だった。道路使用が認められ、適切な運営の下に参加者が集まれば、陸連は追認するしかない。

レース運営に関しては、距離測定はAIMS (国際マラソン・ロードレース協会)が専用スタッフを世界中に派遣していたし、ランナーズ社(『ランナーズ』発行元。後にアールビーズ社と改称)などがコンピューターを使った自動記録計測に実績を残していた。

陸連と新聞社の力なしにマラソンがここまでの繁栄を見なかったのは確かだったが、逆に、代表選手育成という伝統的な考え方が大衆マラソンの行く手を阻む結果になっていた。

日本財団の働きかけと並行して、21世紀に入ってから、都庁や大手広告代理店でも東京マラソンの大衆化の企画は進められていた。欧米には多くの都市マラソンの先例があったが、首都東京がマラソンの伝統を覆す一歩を踏み出すからには、継続性の確保は必須だった。

カーニバルでもなく、歩行者天国でもなく、競技性を持ったスポーツというところに継続のカギがあった。スポーツマインドを持ち、スポーツの現場に通じ、都市マラソンの流れを体感したレースディレクターの存在が必須だったが、当初の東京マラソンは正式にレースディレクターを置いていなかった。

国内にレースディレクターの役割を認識し肩書を添えるまでの理解はなく、石原慎太郎都知事にするか、河野洋平日本陸連会長にするかといった「大会会長」という程度の理解しかなかった点では従来の国内大会と変わりはなかった。

実際にどういう大会を作り上げていくか。その経験、感覚を持っていたのが、2010年の第4回大会から正式にレースディレクターに就任する早野忠昭だ。陸上競技に通じ世界のマラソンの潮流に触れてきた早野の存在が、東京マラソン実現の底力となったことは疑いない。
タカ派の都知事にとって日本陸連、新聞社への遠慮はない。

「やればいい」トップダウンで警視庁が動けば、残る二つの障壁も一本化に向けて動き始めた。問題は東京国際女子マラソンの存在だった。女子による単独エリートマラソンという、日本独特のレースはすでにその普及目的を十分に果たしていたが、東京国際マラソンと一本化するには、そこまでの主催者間の貢献度に差があった。

女子マラソンのほうが2年早く始まっており、しかも男子マラソンは読売とフジの交互主催だったのに対し、女子マラソンは朝日が毎年主催で支えてきた大会だった。

いまさら一緒にという話はまとまらなかったが、この混乱は意外な決着を見ることになる。女子マラソンを東京から横浜に移し、さらに日本テレビ主催の横浜国際女子駅伝を終了させて一本化するという強引な解決策だった。

マラソン開催には大変な人力が必要だ。神奈川県下では2007年から湘南国際マラソンがスタートしており、地元関係者にとってマラソン増設は寝耳に水の話だったが、この東京国際女子マラソンから横浜国際女子マラソンへの変更も、神奈川県出身の河野洋平日本陸連会長のトップダウンだった。

首都東京のマラソンは、タカ派とハト派のトップダウンによって初めて大衆都市マラソンに向けて動き始めた。新しい大会は、東京マラソン財団を立ち上げて単独主催者となり、新聞各社および日本陸連を横並びの共催にすることで運営の独立性を確保した。名称は従来の東京国際マラソンから「国際」が外されてシンプルに東京マラソンとなった。

国際マラソンを謳えば海外のランナーへの招致対策、受け入れ準備が必要になる。近隣諸国、すなわち中国や韓国のランナーにも参加を呼びかけるかどうかを都の担当者に尋ねたところ、「都知事が今度、台湾にお出でになる」と答えた。

外国人参加者は台湾の人々が最も多い。また、東京マラソンには、コース設計で大衆マラソンとしての大きな弱点がある。マラソンは後半がきつく苦しい。街の中心に向かうことがランナーのモチベーションになり、より多くの沿道の声援が後半の苦しさを支え忘れられないドラマを生み出す。

世界のどの都市マラソンのコースも郊外から都市中心部に向かって作られているのはそのためだが、東京マラソンは逆に、都庁をスタートし、苦しくなる30km過ぎから都心部を離れていくコースになっている。大衆都市マラソンは都市の開放であり、そこには大衆に道路を開放するという容易ならぬ問題も横たわっている。

「国際」とするか否かは、確かに難しいテーマだっただろう。それでも、2007年、日本のマラソンは強力な政治力でようやく新しいページを開き、5044人( 10kmの部の1万7523人を含む)が3万870人に絞られて開催された。




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