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1.日本で最初の駅伝が100年前に東京で生まれた歴史に迫る

東京で最初のロードレースが行われた上野の不忍池界隈は一大行楽地で、上野公園のグラウンドでは旧制第一高等学校の生徒が野球に興じ、多くの見物人に囲まれたなかには正岡子規の姿もあった。

1917 (大正6)年、首都が京都から東京に遷って50周年という記念の年に、上野を舞台に「東京奠都五十年奉祝博覧会」が開催されると、読売新聞社はその協賛事業として京都-東京間の「東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」を企画した。

これが我が国初の駅伝であり、発案者は当時の社会部長で歌人の土岐善麿と部下の大村斡だった。社告掲載時点ではまだ「駅伝」の名称は使用されておらず「奠都記念マラソン・リレー」「東海道の従歩大競走」となっている。すなわちペデストリアンである。

「駅伝」の名付け親は、大会副会長を務めた大日本体育協会副会長の武田千代三郎だ。
「東京附近、京都名古屋附近および大阪附近の三団体に分属せしむる」計画だったが、関西ではメンバーがそろわず、東京附近は東京高師、一高、早稲田などの精鋭で組織され、東海附近はマラソンに熱心だった日比野寛前校長(当時代議士)の愛知一中の中学生で組織され、東西2チームによる昼夜のレースが始まった。片方が中学生で構成されたチームなのだから、勝負は二の次だったと考えるべきだろう。

スタートは4月27日午後2時に京都三条大橋で、東海道をひた走り、2日後の29日午前11時34分、関東軍が上野不忍池の博覧会場のゴールに飛び込んだ。いま、三条大橋と不忍池には「駅伝の碑」がある。当時はニュースが少なかった。

戦争報道で埋まった紙面が、明治末から大正の平和時にはネタ切れになり文芸やスポーツにスペースが回った。大阪毎日新聞社は浜寺公園で全国中学校庭球選手権を開催して評判をとり、朝日新聞社は明治末に展開した野球害毒論を一転させ、1915 (大正4)年、箕面有馬電気軌道が建設した豊中球場で全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を始めた。

当時の学制では高校、大学は学校数も地域も限られ、クラブチームも東京と大阪に限定されていたから、中学生大会になったのだ。
東京で発刊した読売新聞社には、東海道駅伝で西日本地域の取材網、販売網をテコ入れする狙いがあったと言われ、前出の土岐善麿はスポーツの醒醐味からは縁遠い人だった。東京以西に弱点があったから、あえてそこに挑戦しようという32歳の心意気だったかもしれない。我が国初の駅伝は大成功だったが莫大な赤字だった。


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