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女子マラソンは女子の持久力が優れていたのでオリンピック種目に

女子マラソン女子マラソンも〈ボストン〉から
日本陸連で長距離を指導してきた中村清、高橋進らが、国立競技場を中心に女子マラソンの指導を始めたのは、女子マラソンがオリンピック種目に加わるという話が伝わった1970年代後半である。

79年2月に行われた第28回別府大分マラソンが実験的に女子の参加を認めて2名が参加。その年の秋には女子選手だけによる第1回東京国際女子マラソンが開催された。優勝はジョイ・スミス(英国)、優勝タイムは2時間37分48秒で、日本選手では38歳の村本みのるが2時間48分52秒で7位に入った。この大会は、健康面と大会運営の二点で注目された。

女子選手がオリンピックの陸上競技に初めて参加したのは1928年のアムステルダム大会だった。
そこで開催された5種目のうちトラック種目は100m、800mと4x100mリレーの3種目で、人見紹枝が銀メダルを獲得した800mのレース終了後に選手が次々に倒れたことが問題となった。

母体保護の問題が提起され、60年のローマ大会で800mが復活するまで32年間、女子のトラック中長距離種目は行われなかった

女性の場合、激しい運動の継続によって無月経など生理的な影響が出ることが明らかで、さらに競技力向上に伴う体脂肪の減少によってホルモンバランスが崩れ、骨組鬆症を引き起こすなどの問題は現在も指摘されている。

重要なのは距離の長短ではなく運動の激しさで、60年代に入って性差の観点から見直しが始まり、女子は持久力に優れているということでマラソンが早くにオリンピック種目に加えられた

女子マラソンが競走競技として成立するのかという疑問もあった。日本のマラソンは男子の少数エリートランナーによるタイトル争奪戦として発展したため、そのレースに女性が加わることは不可能だった。

そうかといって、当時は競技人口がきわめて限られた「女子マラソン」を単独で開催するには、道路使用、スポンサーの理解など、テレビ時代にふさわしい運営が得られるとも考え難かった。
女子マラソンの歴史もボストンマラソンから始まっている。

かつてのアメリカ陸連も、1・5マイル以上のレースへの女性の参加を認めていなかった。1966年のボストンに23歳の女性、ボビー・ギッブがエントリーし、規定に従って門前払いされたが、ボストン体育協会は混雑に紛れてスタートすることは黙認し、ギッブは非公式ながら3時間21分40秒で完走している。

翌67年、今度はキャスリン・スイッツァーという女子大生が性別を伏せ、K・スイッツァーという名義で申請してゼッケンを入手、晴れて「公式参加」した。レース途中で体協役員がスイッツァーが女性であることを確認。陸連規定違反は大会自体も処分を受ける可能性があるため、役員は車を飛び降りてゼッケンをむしりとろうとした。それをキャスリンの男性同僚が体当たりして阻止、役員が道端に突き飛ばされた写真が新聞トップを飾り大きな話題になった。

スイッツァーは4時間20分前後でゴールしたとされるが正式記録は残っていない。問題はスイッツァーの出場を「公式」とするかどうか。実はこの同じレースに、先のボビー・ギッブが非公認で出場し3時間27分17秒で走っていた。ボストン体育協会は72年から公式に女性に門戸開放し、66年まで遡ってギッブの記録を公認している。こうした女性進出の流れは陸上競技の世界にとどまらず、ウーマンリブと呼ばれた女性解放運動など女性の社会進出の流れと結びついていたことはもちろんで、その輪は世界中に広がっていった。

日本では、佐々木七恵(岩手県立盲学校教員からエスビー食品)が1980年の〈第2回東京国際女子マラソン〉で2時間52分35秒の日本最高を作り、翌81年に瀬古利彦とともに〈ボストン〉に出場して女子の13位に入っている。

当時の女子長距離では、干葉県の成田高校の增田明美が注目されており、82年2月には初マラソンに挑戦し、地元の〈光町マラソン〉で佐々木の日本最高を大幅に更新(2時間36分秒)、増田-佐々木で女子マラソン草創期が築かれた。

翌年に大阪国際女子マラソンが始まる。80年に旗揚げした中日女子20kmロードレースが、84年には国際招待選手を加えたフルマラソンに衣替えした。83年からは横浜国際女子駅伝が欧米のナショナルチームを招いて港町をカラフルに演出するなど、いずれもテレビ局主導ながら一般の支持も拡大したことで、競技団体も少しずつ本腰を入れ始める。

81年の第1回全日本実業団女子駅伝は企業の単独チームではなく、地方ブロック代表4チームによる対抗戦で、男子駅伝の前座として行われた。開催地が伊勢から岐阜に移った第3回大会から、地域あるいは企業の単独チームによる対抗駅伝に様変わりして企業も本格的に力を入れ始めた。

エース松野明美を擁した熊本ニコニコドーが、ショッキングピンクのユニフォームで登場した1990年前後が女子駅伝人気のピークだった。女子駅伝はバブル経済の落とし子であり、実業団の駅伝チームが雨後の筍のように誕生した。

女性がTシャツとショートパンツ姿で走る姿は80年代にはまだ珍しかった。カラフルなユニフォームが地味な沿道に映え、女子のロードレースは日本の女性のファッションやライフスタイルにも大きな影響を与えたと言っていいだろう。

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