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日本独自の駅伝とマラソンが共存する日

日本記録更新に13年
1980年代後半、世界のマラソンは大きくギアを入れ替えた。高速化が始まり、大衆化が進み、スポーツの国際化と商業化に伴ってオリンピックと世界選手権という従来のマラソンとは別の座標軸が出現した。

オリンピックがプロを導入し、各競技団体と歩調を合わせてレベルアップを図り、それが商業化に拍車をかけていく。

陸上競技でいえばトラック短距離のカール・ルイス、棒高跳びのセルゲイ・ブブカがその象徴だった。だが、陸上競技のプロ化は逆にマラソンのプロフェッショナルをオリンピックや世界選手権から遠ざける結果になった。

マラソンの記録が伸びるほど、マラソンそのものに特化した競技環境が求められたのは当然のことだった。マラソンのプロはより速くという走る目的を追いかけてオリンピックや世界選手権が開催される夏ではなく秋から春への本家帰りを日掛け、それが都市マラソンの隆盛へつながった。

そもそも、こうした世界のマラソンの変化に日本は大きく関わっていた日本育ちのダグラス・ワキウリがW年ローマ世界選手権で獲得した金メダルがケニア勢のマラソン参入への下地となり、高温多湿の東京で開かれた91年世界選手権はトップランナーの夏のマラソンへのモチベーションを決定的に沈下させた。世界のマラソンの変化あるいは進化は日本が起点となっていた。

森下広一の92年バルセロナ・オリンピックにおける銀メダルを最後に、日本のマラソンは低迷期に入った。森下が91年2月の〈別大マラソン〉で2時間8分53秒を出してから、95年12月の福岡国際で大家正喜(佐川急便)が2時間9分33秒を出すまでほぼ5年、日本選手の誰一人として2時間10分を切ることができなかった。

べライン・デンシモ(エチオピア)が88年の〈ロッテルダム〉で出した2時間6分50秒の世界最高も、98年〈ベルリンマラソン〉でロナルド・ダ・コス夕(ブラジル)が2時間6分5秒を出すまで10年間破られなかったが、日本最高(2時間7分35秒、児玉泰介、86年〈北京国際マラソン〉)の突破は、99年の〈ベルリン〉で犬伏孝行が2時間6分57秒を出すまで、13年間も待たなければならなかった。

要因は主に二つ挙げられる
中山竹通の方法論を日本特有のチーム体制では追求できなかったこと、日本陸連が海外のマラソン大会への遠征を規制し選手を内向化させたことの二点である。こうした競技の内向化を結果的に正当化したものとして、駅伝の存在を挙げなければならないだろう。

戦前からの伝統を誇る箱根駅伝は、日本テレビが1987年に完全中継を開始してから人気が急激に高まり、正月番組として定着した。

山梨県から初めて出場した山梨学院大学がケニア人留学生をメンバーに加えたり、早大のエース渡辺康幸が先輩である瀬古利彦の記録を超える活躍をしたりと、さまざまな話題を提供することで、90年代に入ってから箱根駅伝の視聴率は確実に20%台の後半を維持するようになった。

箱根駅伝の人気定着は、その予備群としての全国高校駅伝、あるいは箱根0Bの受け皿としてのニューイヤー駅伝のレベルアップと注目度アップという相乗効果をもたらし、年末年始は駅伝一色になった。

駅伝競走は日本独特のスポーツ文化である。定着した例は海外にはない。陸上長距離種目の一種ではあるが、競技目的は国内で完結しているから、駅伝への固執は「国境を超え、思想を超え」という近代スポーツの理想から距離を置くことになる。

金栗四三が箱根駅伝を実現させたのは、あくまでマラソンの効率的な普及を考えてのことだった。チーム対抗戦は勝敗をめぐって熱を帯びる。過熱化は、個人競技という本来の陸上競技の発展を妨げかねなぃため、駅伝害毒論は戦前から何度も何度も繰り返されてきた。

箱根駅伝の草創校である早大、慶大は、戦前の1938 (昭和13)年の第19回大会から3大会欠場している。「トラック競技の強化に不適当」と主張し、早大主将の中村清がその反対運動の急先鋒だったこと、戦後の50年代末には織田幹雄らが陸上専門誌で反駅伝キャンペーンを展開したこと。

それでも、駅伝という対抗戦が煽る一体感は日本人の心の奥底を揺さぶり続けた。BSテレビが全国中継を開始した。出場企業チームも80年代の28チーム前後から90年代には37チームまで増えた。

企業にとって駅伝のメリットとして考えられた宣伝効果から、企業のコングロマリットや事業拡大のなかでの従業員の一体感獲得という労務厚生の目的も果たし終え、「とにかく社名を連ねる」と元日行事への参加自体が目的となった。

そもそも駅伝のために結成されたチームの選手にとってマラソンは初めから眼中になく、マラソン選手は減り、国内での競争が沈下した。さらにプロ化など国際情勢の急激な変化が内向化に拍車をかけて記録は低迷していった。

それまでトラックにとどまっていたケニア勢がマラソン参入に腰を上げたのが、そうした90年代のこと。ケニア勢の登場も、〈ボストンマラソン〉から始まった。